光太夫が幕府に伝えたロシア





大黒屋光太夫顕彰会総会の記念講演記録
平成8年7月10日 (平成9年4月下旬冊子発行)

演題 「光太夫が幕府に伝えたロシア」
                      講師  都築正則

       はじめに
 これまで大黒屋光太夫顕彰会総会では、木崎良平氏、中村喜和氏、仲見秀雄氏、後藤隆
之氏が講演され、講演内容もそれぞれ冊子として顕彰会より発行されています。講師の方々の講演を聞いたり、論文、あるいは著書を私も読ませていただき、いずれも大変感銘をうけました。
 演題は、「光太夫が幕府に伝えたロシア」としましたが、今日は、光太夫漂流譚(たん)の系譜、ゲッティンゲン大学に残る光太夫の遺品、そして、光太夫の伝えたことなどを概括的に皆さんと一緒に考えていきたいと思います。  なお、ラックスマン来航前の状況や信最寺のことなど、光太夫を別の角度から理解する上で必要なことを講演では言い残していました。「前置き」及び「終わりに」としてつけ加えさせていただきましたので宜しくお願いいたします。

 前置き
(一) ロシアの進出
 江戸時代も十八世紀にはいると、ロシアの船舶が蝦夷(えぞ)近海に現れ、日本も外国勢力の影響を受けることが多くなりました。ヨーロッパでは、イギリスはピューリタン革命(一六四二│四九)と名誉革命(一六八八)の二度の革命を通して、近代市民社会への道を歩みはじめました。フランスでは、フランス革命(一七八九│九四)が起き、ブルジョワジーの社会に移行し始めました。このフランス革命勃発の影響はヨーロッパ各地に波及しました。当時ペテルブルクにいた光太夫はそうしたロシア国内の様子を江戸の回船問屋白子屋清右衛門(しろこやせいえもん、『北槎聞略』の中では「勢州亀山領白子村の百姓彦兵衛」、地元白子では「一見勘右衛門」)にあてた手紙の中で「今此国ハいくさのさい中に而(て)」と言及しています。
 当時のロシアは、エカチェリーナ二世のもとに発展し、ラッコやアザラシの毛皮を求めて、カムチャッカ半島やアリューシャン列島に進出して勢力下に置き、アイヌなど現地人に高い毛皮税(ヤサーク)を課しました。ロシアは更に南下して千島列島にも現れました。安永七年(一七七八)に蝦夷地霧多布(きりたっぷ)場所ノツカマフ(根室より南西五十キロメートル)に、翌八年(一七七九)に厚岸(あっけし、釧路の東四十キロメートル)に来航し、通商を求めてきました。(維新政府が伊勢、現在の一志郡三雲町出身松浦武四郎の建言をとりいれ、「蝦夷」を「北海道」と改称したのは、慶応四年八月でした。翌九月には慶応から明治に改元されています。)
 松前藩はこれら安永年間の二回のロシア人の来航を幕府に内密にし、ヤクーツクやイルクーツクからやってきたロシア商人の交易要求を拒否しました。ロシア人来航に際して松前藩は接待費用が負担できず、場所請負人飛騨屋久兵衛倍安(ますやす)が肩代わりいたしました。請負場所は利権の対象であり、請負場所を巡ってよく紛争が起きました。飛騨屋は請負場所にからむ横領を公儀に訴えましたので、取り調べの段階で、ロシア来航の件は幕府の知るところとなりました。場所請負人というのは、運上金を納めて松前藩から一定の場所の商場(あきないば)、つまり知行(ちぎょう)場所の交易を委託された商人のことです。蝦夷檜(ひのき)山請負人飛騨屋久兵衛や択捉(えとろふ)場所請負人であった高田屋嘉兵衛などはその代表的な人物です。

(二) 赤蝦夷の風説
 稲作ができなかった蝦夷では、江戸時代初期に海産物や鳥獣の羽皮(うひ)の他に砂金掘り、鷹狩り用の鷹捕獲なども行われ、松前藩の重要な収入源でした。中期以降は檜(ひのき)など木材の伐採や鰊(にしん)、鮭(しゃけ)、鱒(ます)などの漁業がおもな産業でした。それには多くの場合、和人(アイヌ語で「シシャム」)がアイヌ人を相手に交易する形を取りました。さまざまな軋轢(あつれき)がアイヌ人と和人との間にあって、寛文九年(一六六九)シャクシャイン大蜂起など、商人(和人)の収奪に対するアイヌの反抗はたびたび起きました。  光太夫が帰還する三年前の寛政元年(一七八九)には国後(くなしり)島(北海道の東にある北方四島の一つ)やその対岸の目梨(めなし)でアイヌの蜂起がありました。背後にロシアの扇動があるとのうわさもあって、松前藩は藩兵を急遽派遣しました。こうした情勢がさまざまな風説(ふうせつ)を呼び、憶測も交えて議論されました。天明三年(一七八三)には、仙台藩医工藤平助は『赤蝦夷風説考(ふうせつこう)』を書き、幕府に献上しました。  十八世紀中頃になるとロシア人が千島列島で活動しているのが見られようになりました。 彼らは赤い猩々緋(しょうじょうひ)の衣類をまとっていましたので、「赤蝦夷」と言わ れました。猩々緋とは、猩々の血で染めたような朱紅色のことで、猩々は体は犬の形で、 人語を解し、酒を好み、毛は朱紅色という中国の想像上の怪物のことです。  工藤平助の考えの要点は「ロシアは日本を侵攻する意図はないこと、抜け荷(当時うわ さのあったロシアとの密貿易)の禁制をやめて、ロシアとの交易を蝦夷で公的に認めてそ の利益で蝦夷の金山銀山を開発すべし」でした。  蝦夷の騒動も幕府に伝えられ、老中田沼意次(おきつぐ)は、金山銀山開発の可能性の 有無、抜け荷の実状など蝦夷の情勢を調査する必要を感じて、工藤平助の建言を受け入れ て蝦夷地に天明五年(一七八五)調査隊を派遣しました。幕府はロシアの進出が相当すす んでいることをこの調査隊で初めて確認しました。抜け荷は問題にする程のことはないこ と、金山銀山の開発は全く現実離れをしていることなどが確認されました。最上徳内(も がみとくない)もこの調査隊に参加していました。最上徳内は後にアイヌ語、ロシア語を 修得し、蝦夷地も数回行って蝦夷地探検で大きな功績を残しました。田沼意次が天明六年 (一七八六)に老中を罷免されると蝦夷調査も中止されました。天明七年(一七八七)老 中となった松平定信は天明の飢饉や災害などに直面し、倹約を旨とした改革に着手しまし た。それは後に「寛政の改革」と言われました。ラックスマン遣日使節団の来航前は、蝦 夷地ではこのような状況でした。

一、 光太夫漂流譚の系譜
(一) ラックスマン使節団の来航
 寛政四年(一七九二)九月三日(陰暦、ロシア旧暦では十月七日)ラックスマン使節団の乗 ったエカテリーナ号は光太夫、磯吉と小市を伴い、根室の北約三十キロのバラサン沖に着 きました。九月五日朝根室に着き、松前藩根室番屋に出向き、ロシアから来航した旨を伝 えました。ロシアの遣日使節ラックスマン一行の来航は、根室から福山の松前藩邸に、更 に松前藩から幕府に伝えられました。
 ロシア使節来航の知らせを受けた老中首座松平定信ら幕閣も、国内に問題を抱えていて 対応に苦慮しました。定信は、ロシアが強硬に通商を求め続けた場合のことも念頭に置き つつ、目付石川将監(しょうかん)と村上大学を宣諭使(せんゆし)とし福山(津軽海峡 に面した松前藩の城下町)に派遣し、交渉に当たらせました。
 幕府側は漂流民のみを受け取り、通商交渉それ自体には一切応じませんでした。そして ラックスマンの持参したシベリア総督ピーリーの公文書の受け取りすら、長崎以外では受 け取れないと拒否しました。ラックスマンは長崎港の入港許可証に相当する信牌(しんぱ い)を受け取り、通商問題については何の手がかりも得ることなく帰国しました。  光太夫一行は、根室、福山では松前藩の役人に調べられ、江戸に送られてからは江戸町 奉行、目付に調べられました。そして、寛政五年(一七九三)九月一八日には十一代将軍 家斉(いえなり)の御覧を受けました。その模様は、幕府の奥医師桂川甫周(ほしゅう) により同年に『漂民御覧(ごらん)之記』としてまとめられました。  ラックスマン使節との交渉に陣頭指揮をしていた老中松平定信は、光太夫らが江戸に着 く前の寛政五年七月二十三日には老中職を辞していましたが、この御覧には同席して尋問 をしていました。  桂川甫周は光太夫らに対する聞き取りを一年程かけて行い、寛政六年(一七九四)八月 に『北槎(さ)聞略』としてまとめ、幕府に献上しました。「槎」は「いかだ」のことで す。

(二) 幕末の漂流記編纂と林復斎
 桂川甫周編纂による『北槎聞略』には、「固(もと)より事隠密に係(かか)る。あへ て外行すべき書にあらざれば」とその「凡例」に書かれていて、みだりに人にその内容を 漏らすべきではないとされていました。幕府はロシアのなまの情報が世間に流布すること による世情の混乱を恐れていました。しかし、ロシアの漁船が近海に現れたり、イギリス やフランスなども近づくなかでの藩や一般民衆の外国の様子を知りたいという願望は、も はや止めようもありませんでした。
 光太夫はロシアからの初めての生還者であり、多くの藩や庶民はその経験談を知ろうと しました。水戸藩の木村謙次はラックスマン・ロシア使節来航に関する情報収集のため松 前に調査に行っています。いろいろな段階での聞き書きの類は、数多く書写され、流布し ました。関口宏の「知ってるつもり」で光太夫を扱った時のプロデューサー山田薫氏は、 私への手紙の中で、江戸時代に漂流文献は多いけれども、光太夫関係が際だって多いこと を指摘されました。
 遭難事故は海に囲まれた日本ではよくあったことでした。生還者は光太夫以前にも、以 降もいろいろありました。寛永二十一年(一六四四)の越前竹内藤右衛門船(とうえもん)の 遭難記『越前船漂流記』をはじめいくつかが知られています。寛政五年(一七九三)に遭 難し、レザノフ使節に伴われて文化元年(一八О四)帰還した仙台若宮丸津太夫らのこと は、大槻玄沢により『環海異聞(かんかいいぶん)』としてまとめられました。光太夫も 玄沢から不明のことを尋ねられています。遭難記の白眉(はくび)、文化十年(一八一三) 遭難の尾張督乗丸船頭重吉らの『船長(ふなおさ)日記』、天保十二年(一八四一)土佐漁船 で遭難した万次郎の『満次郎漂流記』などはよく知られています。  嘉永六年(一八五三)に林復斎(ふくさい)編纂『通航一覧』は、江戸時代に発行され た本としては、鳥瞰(ちょうかん)図的に漂流記を把握できる点で最良のものでした。

(三) 明治時代の漂流記物と石井研堂
 明治維新以降になると、教育の普及とともに、いろいろな少年向けの雑誌が発行されま した。少年雑誌の元祖となった明治八年の『学庭拾芳録(がくていしゅうほうろく)』な どが出ました。石井研堂編集の『小国民』が明治二十二年に発行され、巖谷小波(さざな み)の『幼年雑誌』が明治二十四年に発行されて、この二冊の少年雑誌が少年の人気を二 分していました。
 石井研堂が、明治二十五年に発行した『日本漂流譚』第一集、翌二十六年の第二集こそ は、大黒屋光太夫のことが全国的に知られるのに大きな役割を果たしました。やさしい文 章で、少年を念頭においた記述は、大変な人気を得ました。これらのことは山下恒夫著『石 井研堂』に出ていますが、維新の元勲副島種臣(そえじまたねおみ)も『日本漂流譚』を 絶賛し「漂譚楼(ひょうたんろう)」と揮毫(きごう)し、その扁額(へんがく)を研堂 にあたえました。新聞にも出て光太夫のことや石井研堂が知られるようになりました。  吉野作造は、大正十三年の『露国帰還の漂流民幸太夫』の中で、石井研堂の『日本漂流 譚』に載った幸太夫について次のように書いています。  「その二巻目の終わりに、右両名(幸太夫と磯吉)の物語が詳しく出て居る。加之之(こ れにくわえるの)には将軍家上覧の有様を極彩色の木版摺(すり)にしたのが巻頭の口絵 にあって、読んでの印象を一層深からしむるものがある」極彩色の木版画摺の口絵が、作 造少年の心をどれ程ときめかせたことか、よく分かるような気がします。

(四) 若松と新村出
 こうしたことがあって、文明開化の明治時代にはいろいろな漂流譚が競って書かれ、少 年達に愛読されました。こうした時代背景があって、新村出(いずる)京大教授は『三重 教育』明治四十三年(一九一О)八月号に論文「伊勢漂民光太夫等の事蹟」を発表しまし た。そして、明治四十三年八月七日、三重県鈴鹿郡亀山町(現亀山市)県立女子師範学校 陰涼(いんりょう)会の記念式典で「海国史上の伊勢」と題して講演し、光太夫のことを 紹介しました。山下恒夫氏から送られてきた伊勢新聞にその記事が掲載されていました。 その中で光太夫らも紹介されていました。  光太夫の故郷若松の興奮は相当なものであったと想像されます。大正七年(一九一八年) 七月には地元の有力者により、「開国曙光(しょこう)の碑」が作られました。それは新 村出撰文(せんぶん)、貴族院議長徳川家達(いえさと)の篆額(てんがく)でありまし た。その後台風により碑の倒壊もありました。その後山口喜兵衛氏らの努力により、「開 国曙光」の碑は鈴鹿市役所若松支所の現在地に再建されました。  『露国帰還の漂流民幸太夫』を書いた吉野作造は、東大教授で、民本主義を主張し、黎 明会を結成し、大正デモクラシーの中心となった人です。新村出は『広辞苑』の編者とし も知られています。
 明治、大正時代に日本をリードした二人の学者が東と西で光太夫研究に先鞭(せんべん) をつけたことには興味深いものがあります。

(五) ゲッティンゲン大学と奥平武彦
 昭和に入ってから、海を越えた朝鮮の大学の若き政治学者奥平武彦は、欧米留学中に、 ドイツのゲッティンゲン大学図書館において光太夫の遺品を発見しました。奥平武彦は東 大法学部政治学科を大正十三年(一九二三)に出て京城帝国大学に赴任した政治学者でし た。奥平武彦は、光太夫がペテルブルクから江戸の白子屋清右衛門(せいえもん)に宛て て書いた手紙は同大学図書館の目録にありながら発見できませんでした。しかし、光太夫 がイルクーツクとペテルブルクで描いた日本地図三枚、光太夫が日本から持っていった浄 瑠璃本『花系図都鑑(はなけいづみやこかゞみ)』などを発見しました。また、安永八年(一 七七九)八月ロシア使節の蝦夷厚岸(あっけし)における接見の絵なども見つけています。 昭和七年十二月、満鉄各図書館報『書香(しょこう)』四十五号において、奥平武彦は「ギ ョッティンゲン大学図書館の日露関係文書」と題した論文の中で、ドイツのゲッチンゲン 大学図書館に残るこれらの光太夫の遺品を紹介しました。厚岸でのロシアと日本との初め ての会見図を見て、日本側の代表は、松前藩の浅利幸兵衛、ロシア側の代表は、ラストチ ュキン、この絵の筆者はシャバーリンと推定しています。これ程までにロシアと日本との 関係について奥平が詳しいことに驚かされます。

(六) 光太夫帰郷文書と亀井高孝
 昭和三十年代後半に若松東墓地で光太夫の墓が山口喜兵衛氏により発見されたことは、 光太夫が確かに若松にいたことの証(あかし)であり、通知を受けた光太夫研究家の亀井 高孝(たかよし)を喜ばせ、これが昭和三十九年の亀井高孝の名著『大黒屋光太夫』へと 繋(つな)がることになりました。昭和四十一年一月から二年間にわたり井上靖は文芸春 秋に『おろしあ国酔夢譚』を載せ、昭和四十三年十月三十日に単行本として発行しました。 光太夫は一躍日本中に知られました。
 昭和六十一年八月に、若松小学校の校長であった弓削弘(ゆげひろむ)氏らにより、若 松公民館のすぐ近くの南若松中部地区の倉庫より帰郷文書(もんじょ)が発見されました。 磯吉は寛政十年(一七九八)十二月十八日から翌年一月十七日まで帰郷していましたが、光太 夫も若松に享和二年(一八О二)四月二十三日から六月三日まで帰郷していたことは、その 後の光太夫研究を広げるもととなりました。亀井高孝が『大黒屋光太夫』の中で、「光太 夫は、永久に故郷の土を踏まなかったものと見たい」と書いた箇所は、この文書の発見に より訂正される必要が生じました。
 帰郷文書の詳細は仲見秀雄氏により昭和六十一年十一月の『三重の古文化』五十八号に 「大黒屋光太夫らの帰郷文書」と題して帰郷文書の解読とその意味するところを論文にま とめて発表されました。こうして光太夫の帰郷のいきさつが世に知られるようになりまし た。

(七)  光太夫を多くの人に
 光太夫を顕彰し多くの人に知ってもらおうと、昭和四十二年十二月に彫刻家宮崎かなる さんにより光太夫座像が作られ、山口喜兵衛、亀井高孝、山下実、高橋礼二などの方々も 完成を祝う式典に参加されました。昭和六十二年六月には大黒屋光太夫のブロンズ像が若 松小学校創立百周年を祝って稲垣克次氏により制作されました。市制五十周年を記念して、 平成四年四月白子新港に井上靖文学碑「大黒屋光太夫讃」と記念碑「刻(とき)の軌跡」 が三村力氏設計で作られました。平成五年一月開催の「大黒屋光太夫帰国二百周年記念展」 もその一つです。私もゲッチンゲン大学所蔵の光太夫の遺品貸与交渉に関係させていただ いた経過を踏まえて、平成五年十月に『里帰りした光太夫の手紙』という本を出しました。  また、光太夫顕彰会からは平成五年三月に仲見秀雄氏、辻正(ただし)氏、山口俊彦氏 らを中心に光太夫の写真資料集『あけぼの』が出版されました。これまであまり知られて いなかった資料などが写真で紹介されました。日本各地にあった光太夫関係の遺品、遺墨 (いぼく)、肖像画、漂流記写本など各種の写真が載せられています。  音楽面では、青木英子脚本、山下健二ロシア語訳、ファルファング・フセイノフ作曲で オペラ「光太夫」が作られました。これは平成五年九月十五日鈴鹿で初演され好評を博し ました。

(八) 露日交流の記念碑
 光太夫らの顕彰事業はロシアにおいても行われました。イルクーツク市カナザワ通りに タラソフ氏、クリコフ氏らを中心にして、三村力氏制作の「露日交流の記念碑」が作られ ました。平成六年(一九九四)十一月三日には、鈴鹿からも衣斐賢讓市長、宮崎平男市議会議 長、勝田吉太郎鈴鹿国際大学学長ら十九名の訪問団が参加して、その除幕式が行われまし た。私もその一員として参加しました。その記録は、『アンガラ河畔にたちて』と題して 参加者全員執筆で発行されました。加藤敏郎氏は「庄蔵や新蔵の消息は」と題し、また金 田良一氏は「人と人との織りなすドラマ」と題してそれぞれの思いを書いてみえます。  記念碑は、周囲の白樺の木立と建物の取り合わせが実に見事でした。  除幕式の中で、詩人のマルクス・セルゲーエフ氏は光太夫を称えた自作の詩を朗読され ました。朗々とした響きが白樺林にこだましていたのをなつかしく思い出します。翻訳は 三重大学のロシア語の先生初瀬和彦氏にお願いしました。

 風 に 運 ば れ
 マルクス・セルゲーエフ
 訳詩  初 瀬 和 彦

船倉(ふなぐら)ははや満ち溢れ      
真珠の粒の米積みぬ
猛(たけ)き船乗海を統(す)べ     
白子の浦よいざさらば

船帆(ふなほ)は孕(はら)み風を受け
小船は沖を滑り行く
海の男よ奮(ふる)い立て
白子の浦よいざさらば

黒雲(くろくも)空をかすめ飛び
かもめは妙に声潜む
にわかに疾風起こり来ぬ
白子の浦よいざさらば

船帆(ふなほ)早くも切り裂くは
狂える疾風鉄の手ぞ
我ら忘るな白子浦
我ら忘るなさらばさや

波涛(はとう)は怒り狂いたち
恐怖の疾風船壊す
帆柱は折れ船具飛ぶ
天(あめ)の下なる世もさらば

神よ何ゆえ幾日も
我らを太洋(うみ)に留め置くや
あればいずこぞオロシアか
故郷の地よいざさらば

妻は涙も涸(か)れ果てて
親なき子らも育ちゆき
十二の年を経にければ
白子の浦よ迎えあれ

汝(なれ)に栄光(さかえ)ぞ光太夫
帰還の勇者栄光あれ
これぞ男の偉業かな
白子の浦よ迎えあれ

近付く春に故国(ふるさと)の
野山も雨に濡れるとき
オロシアの夢汝ら見ゆ
お告げの夢を汝ら見ゆ

年月(としつき)巡り二百年
明るく晴れてアンガラの
川を見下ろす町にいて
船を降り来る夢を見ゆ

二、 ゲッティンゲン大学に残る光太夫の遺品
 (一) 浄瑠璃本『花系図都鑑』
 「光太夫帰国記念展」に際してゲッティンゲン大学との交渉過程において、光太夫がペ テルブルグに残してきたと思われる浄瑠璃本『花系図都鑑』が同大学図書館で再発見され ました。亀井高孝が『光太夫の悲恋』(吉川弘文館)の中で、「『花系図都鑑』という浄 瑠璃本は奥平教授の記載があるが、いまのところ再発見ができればと期待をかけるだけで ある」と書いていた本です。
 光太夫の遺品の浄瑠璃本『花系図都鑑』を解読すれば次のようになります。 清水清玄(しみずきよはる) 清水清玄(しみずせいげん)花系図都鑑(はなけいづみやこかゞみ)                             竹田出雲  都ハ花の九重や。武将東山ノ義政公。将軍宣下の勅使と/して。摂家の嫡男花世ノ中将上 段の間に座し給へば。将軍の母/君養寿院。執権舟岡式部ノ太夫同大谷逸当。勅使の家/臣 糺伊勢ノ守。威義厳重に相詰て。御馳走の式キ三番ン千/代を。祝して納めれバ。中将御悦 び浅からず。等閑ならぬ御馳走と申シ。
 浄瑠璃本の表紙には、光太夫が遭難以前に回船で江戸に送った船荷に関するメモ書きと 推定される書き付けがありました。仲見秀雄氏はそれらを「ちぐさ(もえぎ色の布)」、 「しろ二すじ(白色の布二すじ)」、「かうし百端(たん)(格子縞の布百反)」などと 解読されました。仲見氏のお話によれば、それらは光太夫が渡航前に輸送した木綿の分量 に関するメモで、しかも積み荷の中で自分が扱うことのできた分量のメモではないかとの ことです。
 また、筆記体の欧文は『花系図都鑑』についてのゲッティンゲン大学図書館の目録にの っている解説で、次のように書いてあります。
  印刷された日本語の本
 難破して、カムチャッカに流された日本人ダイコクヤは、コーダユー生まれであるが、 一七九一年にこの本をペテルブルクに持ってきた。彼は自分の名前をこの本にロシア語で 書いた。というのもレセップスが既に報告している通り、数年前から彼はヤクーツクに滞 在していてロシア語を熱心に学んでいたからである。  この本は何編かの喜劇が入っているとのことである。
 これは光太夫の遺品を母校のゲッティンゲン大学に送ったトーマス・フォン・アッシュ というドイツ人の書いたものです。アッシュはドイツ人を両親として一七二九年にペテル ブルクに生まれ、最後にはロシア帝国陸軍一等軍医及び枢密顧問官にもなって一八О七年 に同地で亡くなっています。ロシアの官制は、『北槎聞略』にける光太夫の説明によれば、 十九等官に分かれ、四等官以上(少将以上)は国王自ら親任するとのことです。「一等官」 は「ゲネラル・フェリド・マルシャル(元帥)」であると説明しています。従って、「一 等軍医」は「軍医総監」の訳語がふさわしいと思います。  さて、アッシュはゲッティンゲン大学に留学し、医学を学び、ロシア帝国陸軍軍医総監 になり、民俗資料に関心を持っていて、ロシア各地の民俗資料を集めては母校ゲッティン ゲン大学に送りました。アッシュが送った民俗資料は今日のゲッティンゲン大学図書館の 基礎をなす資料となりました。光太夫がペテルブルクにいた当時、アッシュはペテルブル クにいて六十三歳で枢密(すうみつ)院顧問官でもありました。光太夫が会っているはず と思える一人です。
 「コーダユー生まれのダイコクヤ」とは奇妙な言い方ですが、アッシュは光太夫につい てはその程度しか知らなかったと思われます。  仲見氏は、この『花系図都鑑』の表紙の書き付けについて平成六年一月の鈴鹿市郷土史 研究会、同年三月『三重の古文化』で発表され「遭難以前の船頭としての光太夫を知る資 料として貴重である」と述べてみえます。光太夫は三十二歳の若さで沖船頭(雇われ船頭) となりましたが、そのようになるべき人物として、船主の一見勘右衛門に信頼を得ていた ようです。

(二)  光太夫の手紙
 奥平武彦が昭和四年(一九二九)に見つけることが出来なかった光太夫の手紙は、亀井 高孝が始めて紹介しました。亀井高孝は、国立公文書館内閣文庫本の『北槎聞略』を解読 し、昭和十二年(一九三七)十二月に三秀社から出版しました。この本は『北槎聞略』の 解読と光太夫の手紙が活字となって始めて紹介された点で大変重要であります。西洋史の 教授であった亀井高孝はその中で、旧制一校の同僚数学教授田中正夫から渡された光太夫 の手紙の写真を見た時の感動を、次のように書いています。  「特記したいのは、旧故(きゅうこ)にあてた光太夫自筆の書簡である。...字数にして 一千あまりに過ぎない走り書きの中に、苦難十年の哀情をほとばらせた一字一画の墨の跡 は、測々(そくそく、身にしみて感じる)として涙なしには読まれない絶唱である。この 書簡の存在は、最も端的に光太夫の人間を浮き彫りにするものであって、北槎聞略全巻に 劣らない人生記録である」
 「『北槎聞略』全巻に劣らない人生記録」とまで言い切った亀井高孝の言葉の中に並々 ならぬ思い入れがうかがえるのであります。「光太夫記念展」において、縦三十三センチ、 横四十二センチの光太夫の手紙が、淡いネズミ色をしていて、やや厚手の上質の洋紙であ って、獅子(しし)の絵とAという文字の透かしが入っていたことを懐かしく思い出しま した。岩井憲幸氏の研究によれば、手紙の紙は「プロ・パトリシア紙」とのことです。つ いでながら国会図書館本『北槎聞略』は見滝伸忠医学博士により平成三年(一九九一)に 解読・自費出版されています。
 また、「光太夫記念展」では、遺品の日本地図三枚も里帰りして展示されました。見事 な絵筆に感嘆しました。

(三)光太夫の肖像画
 光太夫展ではまた、光太夫の自筆の署名と光太夫の肖像画のカラー写真をゲッティンゲ ン大学から入手できました。私が平成七年五月にドイツ人向けに書いた『船頭大黒屋光太 夫』という本の中にあるカラー写真がそれです。

 天明     拾歳    伍月     
テニメーイ ティウ ネーン ゴーガーツ  
廿七日      日本   伊勢クニ   
ニージウシジニーツ ニーポン イーセクーニ 
 白子   大黒屋幸太輔 
シュイロコ ダイコークヤ コダユ 

 これはジーファースというドイツ人薬剤師が持っていた『交友録』の中にあるものです。 「交友録」というのは一般的に親しい友人や客に友情の印に一筆描いてもらゲストブック のようなものです。光太夫がイルクーツクで署名した天明十年五月は、寛政二年(一七九 О)に相当し、光太夫がイルクーツクに着いて二年目に当たります。漢字には読み方がド イツ語のアルファベットで添え書きしてあります。ドイツ語風に読むと仮名書きのように 読めます。
 光太夫はその後、エカチェリーナ二世に帰国許可を受けるためにペテルブルクにラック スマンと一緒に行きました。女帝の帰国許可を受けて、再び光太夫はイルクーツクに一七 九二年一月帰ってきました。同年五月二十日にイルクーツクを発っていますので、五月十 日の日付のある肖像画はその二度目のイルクーツク時代に描かれたものです。光太夫がイ ルクーツクをその十日後に離れるというあわただしい頃の肖像画です。  写真の説明書には、次のことが書いてあります。
 私の友人コーダユーは日本人船長であるが、再び日本に向けて旅立って行った。                        一七九二年五月十日
 ジーファースは一七六二年北ドイツ、ハノーファーに近いパイネという小さな町に生ま れました。ハノーファーで薬剤師として修業を積み、一七八五年ペテルスブルクに来まし た。後にエカチェリーナ女帝に仕えた薬剤師でした。当時ペテルブルク科学アカデミーの 会員でもありました。ジーファースはシベリアに派遣された薬草調査隊に加わり、健胃剤 や下痢止め剤として当時珍重されていた大黄(だいおう)という植物を探すために一七九 О年五月にイルクーツクに来ていました。
 ジーファースは『交友録』の中で、ラックスマンや光太夫のことを書き留めています。

イルクーツクにて、一七九О年五月二十六日  エリクス・ラックスマン、「鵞(が)ペンの絵」  宮廷顧問官エリクス・ラックスマンは、一七九六年一月十七日にペテルブルクからイル クーツクへの帰路において死亡した。後に未亡人と二三人の息子を残して。  一七九О年五月二十七日   (名前)ラックスマン(ロシア文字で)
 イルクーツクにて、一七九二年五月十日 
 水墨画、刀を持って立っている男の人。絵の下に「私の友人コーダユーは日本人船長で あるが、再び日本に向けて旅だって行った」とある。もう一枚の紙には日本語の文字で光 太夫による名前などが書いてある。そこには二個の捺印がある。光太夫に関してはこの本 の「日本人光太夫」と題した補遺を参照のこと。

  (これらはO. デーネケという人の書いたジーファースに関する「一七九О年頃シベリア における一人のニーダーザクセン州の自然科学者」という論文からの引用です)  ドイツ語古文書の解読は、ゲッティンゲン大学のロールフィンク博士や三重大学イレー ネ・ビュフリー先生にお願いしました。活字体に直して対照し、私にも古文書が何とか判 読できました。
 光太夫は、博多人形のように描かれていますが、羽織と小袖、帯、羽織の紐、それに刀 の下げ緒まで描いてあります。漂流者の光太夫が、多分船箪笥(たんす)に入れて、これ らを旅の途中ずっと持ち歩いていたものと思われます。ペテルブルクにも持って行って、 エカチェリーナ二世に接見を受けに行くときも、和服で正装して出かけたことが知られて いましたが、その姿は多分このようなものであったと推測されます。  この肖像画については、伊藤恵子さんが平成五年三月に、『窓』誌上で「アッシュコレ クションの背景」と題して既に紹介されてみえます。
 ついでながら、皆様に見ていただいている私の書いた本『船頭大黒屋光太夫』の中には、 もう一つのカラー写真が載っていますので、少し説明いたします。それは、光太夫の時代 の江島の様子を描いた江島若宮八幡神社(江島神社)所蔵の「大宝殿(たいほうでん)絵 馬」です。大宝殿は現在の鈴鹿市江島本町にあった素戔鳴尊(すさのうのみこと)を祭神 とする神社でした。明治四十二年に江島神社に合祀(ごうし)されていまは住宅地になっ ています。その跡地は今次大戦前までは「だいほうで山」と呼ばれた小さな丘になってい て、土地の子供達の遊び場になっていました。
 この絵馬は、天明元年(一七八一)霜月(陰暦十一月)二十八日に大宝殿が遷宮された 際に奉納されたものです。光太夫はこの年は三十一歳で、出帆の前年でした。絵馬をみる と、若松や白子もこのように繁盛していたものと推測されます。この写真は、稲生小学校 赤工佐久良先生が前川栄次宮司の協力をえて撮影されたものです。江島神社所蔵の「大宝 殿絵馬」を実際に見ても、すでに退色がかなり進んでいて、これ程きれいには細部はわか りません。
 この絵馬をみると、現在の江島の元船宿野嶋家辺りにあったと想定される家で蹴鞠をし て遊んでいる所も描かれています。京都の九条家に出入りを許されていた江島の回船業者 松野源三郎家に関係していた家かも知れません。いずれにしても京文化の影響が白子にも 及んでいたことがわかります。この絵馬には、ソテツも描かれているのです。江島の河合 家に今も残るソテツがここに描かれているソテツと推定されます。光太夫はこの繁盛(は んじょう)した若松や白子で育ち、船乗りの訓練を積んでいたものと思われます。

三、 光太夫の伝えたこと
 光太夫が実際に書き残したものと言えば、ゲッティンゲン大学に残る白子屋清右衛門宛 の手紙、ペテルブルクに残る遺品『絵本写玉袋』や『森鏡邪正録』の中の書き付けなどに 限られています。その他は、『北槎聞略』と『漂民御覧之記』などに代表される間接的に 分かる記録です。それら日本とロシアに残る資料から、光太夫は何を後世に伝えたのか、 調べてみたいと思います。

(一) 光太夫の会った人々
 光太夫は、『北槎聞略』の中で日本人以外で六十人余の人の名を挙げています。歴史上 の人物もありますが大半は光太夫と何らかの関係があった人物です。それぞれにその出会 いを説明しています。日本人は、根室から松前の間で、神昌丸船乗り以外に会った二十人 余の人を挙げています。
 最大の恩人であるキリル・ラックスマンについては「十七の言語文字に通じ、兼(かね て)て多識の学に委(くわ)しくもつとも博覧強記にして、しかも温厚篤実(とくじつ) の人成(な)るよし」と評しています。
 遺日使節を送るについて最大の役割を果たしたベスポロツコなどは、帰国許可をいらい ら待っていたころは「ひとに憐れみの少しもない奴じゃ」(『絵本写玉袋』)と怨んでい ましたが、実際は「とりわけ懇(ねんごろ)にて常に出入りす」(『北槎聞略』)という 程親しくしていました。
 では光太夫が会っていることがはっきりしている人で光太夫が一言も触れていない人は といえば、カムチャッカで会っていて、「当人(光太夫)は他の八人の上に著しい支配力 を持っていた」(『旅行日録』)と光太夫について印象をのべているレセップス、イルク ーツクで帰国する光太夫に対し「我が友光太夫は再び日本に旅だっていった」(『交友録』) と書いたジーファースなどです。こうしてみてみると、『北槎聞略』は光太夫が経験した 総てではなく、「何を述べ、何を述べたくないか」という光太夫の意図が明確に働いてい る記録だということがわかります。光太夫の遺品をゲッティンゲンに送ったアッシュも光 太夫に会っているはずだと思うのですが、これはどちらの記録にも出てきません。

(二) 世界についての認識
 光太夫は、世界をアジア州、欧羅巴(エウロパ)州、亜弗利加(アフリカ)州、亜墨利 加(アメリカ)州にわけ、ロシアと通商している国を五十二ヵ国挙げています。但し、「ヤ ポンスコイ」と日本を記し、「皇朝いまだ彼国(かのくに)と通商せずといえども..」と述 べて、日本との通商を欲するロシアへの若干の配慮のある表現になっています。皇帝の治 めている国として、アジアでは、清(中国)、ペルシア、ムガール帝国(現在のインドに あったイスラム王朝)、ヨーロッパでは、ロシア、ドイツ、オスマン・トルコ(イスラム 帝国)などが挙げられています。この時代に、世界の覇権を争っていたイギリス、スペイ ン、ポルトガルなどは「王侯所理(おさむるところ)の国なり」と説明しています。  地理のことで不明のあった場合や光太夫の述べることに不審のある場合には、桂川甫周 は、手持ちのオランダ語の地理書『ゼオガラヒ』を参照して補足しその根拠も説明してい ます。光太夫にせよ、甫周にせよ、おおよそ世界中の地理に関しては、ほぼ正確な認識を 持っていました。

(三) 二人の皇帝人物評など
ロシアの皇帝に関しては、光太夫はまずピョートル大帝のことを挙げています。大帝を中 興の祖で「聡明睿智(えいち)にして新たに制令(せいれい)をたて」風俗、衣服、礼法 の昔の悪習を改めた、と評価しています。ピョートル大帝については一七ОО年から一七 二一年にかけての北方戦争でスエーデンを破り、ロシアのバルト海方面進出を確実にし、 官僚制度、軍事制度を整備しましたが、光太夫はそれらには触れず、当然のことながら耳 学問的色彩の濃いものでした。
 エカチェリーナ二世に関しては、「当今はネメツといふ国の人なるよし。今茲(ことし) 癸丑(みずのとうし、一七九三年)に年六四。」と言っています。エカチェリーナ二世は アンハルト・ツェルプスト公の娘として一七二九年に北ドイツのシュテッティンに生まれ ました。光太夫が桂川甫周に事情聴取を受けていた寛政三年(一七九三)女帝は確かに満 六十四歳でした。甫周は、オランダの地理学書『ゼオガラヒ』を引用して「メネツ」をド イツと推測しています。彼の考証の過程は極めて厳密でした。  光太夫は、その他、風土、結婚、葬礼、官制、時刻、租税、度量衡、武器、年中行事等 七十六の項目について説明しています。

(四) 光太夫のロシア語
 『北槎聞略』の末尾には、簡単なロシア語の辞書があります。ロシア語の単語は全部で、 木崎良平氏の調査(『光太夫とラクスマン』)によれば、千二百六十二語です。レセップ スはカムチャッカで光太夫の行動をみて「彼は面前で起こりまたは語られる事柄に注意し、 忘れないようにすぐにノートに書き留めた。彼はその思うことを人にわからせるだけのロ シア語を話す。だが彼と会話をする時にはその発音を聞き慣れる必要があった」と光太夫 の語学力を評価しています。  光太夫は、帰国後はロシア語を生かす機会は与えられませんでしたが、オランダ通事馬 場佐十郎や、常陸の古河藩家老鷹見泉石などにロシア語の手ほどきをしたことが知られて います。光太夫は、日本語(例えば「ツル」)をロシア語の文字で扇子に筆書きした遺墨 などを残しています。

(五) 光太夫のロシア語の功績
 さて、光太夫がロシア語面で果たした役割を考えてみたいと思います。  光太夫は『北槎聞略』の中で「此の学校に万国寄語(きご、あらゆる国の日常語)の書 あり。部を分かちて日本語をも載せたり。..光太夫に冊定(さんてい、文を直す)すべきよ しを望まれける故、日々通いて六日にして卒業(そつぎょう、なし終える)す。」つまり、 ペテルブルグにてある学校を訪れたところ、『万国寄語』という本があって、日本語も載 っていた。ロシア語とその日本語訳がうまく合っているかどうか調べて欲しい、と頼まれ、 六日がかりで直し終わった、と言っているのです。この『万国寄語』という本は、新村出 らの研究により、パラス編集の『欽定全世界言語比較辞典』のことと確認されています。 この辞書は、世界の百九十六種類の言語とロシア語とのいわば比較言語辞典です。採用単 語はわずかに二百七十三の単語に数詞が少しあるだけです。光太夫はこの欽定全世界比較 言語学辞典の日本語の部を見た最初の日本人でした。言語学の草分け的なこの辞書の改訂 に光太夫は貢献しました。
 光太夫の帰還後文化八年(一八一一)に国後島で幕府役人によるロシア船ディアナ号艦長 ゴローニン逮捕事件がありました。その報復として文化九年(一八一二)国後島沖で、択捉(え とろふ)場所請負人高田屋嘉兵衛が連行される事件がありました。そのとき幕府はロシア 語の通訳を必要としましたが、幕府の命を受けて通訳として派遣されたのは光太夫ではな くて、光太夫にロシア語の手ほどきを受けた馬場佐十郎でした。齢(よわい)六十を過ぎ ていた光太夫には寒冷地での通訳の仕事は無理だったかも知れません。
 さて、亀井高孝・村山七郎編『北槎聞略』(吉川弘文館)の巻末論文において、村山氏 は光太夫の日本語には伊勢言葉の特徴があることを指摘されています。 ハ行H音においてヨ髭メヒンゲ、頬メほべた、   F音においてヨ深いメフカイ(fukai)、舟メ        フネ(fune)、太いメフトイ(ftoi)、 仮名セにおいてヨ伊勢メイシェ、拙者メシェ        シャ、世メシェ 仮名エにおいてヨ声メコイェ、枝メイェダ
 光太夫の仮名表記から、当時の伊勢方言が一部復元されたわけです。  また、何故「ロシア」を「オロシア」と書いたかについても村山氏の説明がありました。  ロシア文字 P (エル)、英語の Rで始まる単語、例えば、Russiaを発音すると、母音 がその前につくというのです。つまり、「ロシア」と言おうとすると自然に「オロシア」 と言っていて、光太夫はその通りに書いたというわけです。馬場佐十郎は「レザノフ」を 「エレザノフ」と書いているとのことです。何故「オロシア」なのか、漠然と長年疑問に 思っていたことに答えが与えられました。

おわりに
(一) まとめ
 光太夫、磯吉と小市は遭難という苦難を乗り越え、やっと祖国に帰ってまいりました。 でも、祖国は光太夫の期待していたようには迎えてくれませんでした。しかし、光太夫た ちの忍耐と勇気は二世紀を越えた今日、我々にどれ程の励ましとなっているかはかり知れ ません。

(二) 信最寺と松平定信
 さて最後に、講演では触れませんでしたが、楠町の古刹(こさつ)信最寺にあった「光 太夫寄進」という銘の入った梵鐘の話をつけ加えさせていただきたいと思います。これは 四日市の舘寛治氏が信最寺において、その資料を見つけられ、光太夫顕彰会事務局に連絡 があったとのことです。  鈴鹿川は布引山地の加太(かぶと)を源とし、関町、亀山市、鈴鹿市を流れ、楠町の南 五味塚で伊勢湾に注ぐ川です。国道二十三号線と交差する所で、鈴鹿川本流と鈴鹿川派川 に分かれます。その派川は蛇行して楠町に入り塩浜街道と交差する所の五味塚橋あたりで 北に大きく湾曲して河口に至ります。その五味塚橋の北、三重郡楠町北五味塚町に真宗高 田派信最寺があります。  江戸時代に南及び北五味塚村、小倉村、南川村など現在の楠町地区はずっと桑名藩領で した。そして、桑名の南に位置する飛地領でした。北は天領の塩浜村でした。南は紀州藩 領の北長太(きたなご)村、神戸藩の湊(みなと)であった南長太村でした。桑名藩のい わば南の砦(とりで)の役目を果たしていた信最寺に、「江戸大黒屋光太夫寄進」と銘の あった梵鐘がありました。それは昭和初年に火災に遭って梵鐘が真っ赤になる程焼けてひ びが入ってしまい、鐘の音は失われてしまったそうですが、それまでは美しい音色であっ たとのことです。しかし、今次大戦中に軍部の命令でその梵鐘は軍に供出されて、もはや 信最寺にはありません。
 江戸時代、松平定信は長子定永(さだなが)が奥州白河より桑名に文政六年(一八二三) に移封されてより、この信最寺に人文画家谷文晃(ぶんちょう)や大西椿年(ちんねん) を伴いしばしば訪れていました。寺の庫裏(くり)から庭に出るとそこには鈴鹿川派川の 水を引き入れて青い水を満々と湛(たた)えた深い池がありました。寺に注いでいた小川 は今は農業用水となっていますが、江戸時代には耳をすますと快い水音をたてて寺の池を 流れていました。寺には、松平定信が池のかすかな水音を聞きながら「聴泉(ちょうせん)」 と揮毫(きごう)した扁額(へんがく)や、谷文晃筆の画歌の襖(ふすま)絵、大西椿年 の四君子(高潔な君主を象徴する菊、蘭、梅と竹)の絵、定信命名の猿荷石(えんかせき) などもあって、寺と定信との関係の深さを物語っています。

(三) 信最寺十三代純慶と光太夫銘の梵鐘
 十三代住職純慶(じゅんけい)(天保十年、一八三九年寂)の時代に、寺全体が再建さ れました。現在の住職古江信明氏の先代十八代宣明(せんみょう)の記録によれば、「光 太夫寄進」の銘のある梵鐘は、文政八年(一八二五年)に寄進されたとのことです。文政八年 といえば、光太夫は七十五歳の喜寿の歳であり、定信は六十八歳となり古希にあと二年の 歳でありました。古江住職は、定信が光太夫に対する処遇の仕方に感ずる所があって、定 信が光太夫の名前で、いわば詫(わ)びの気持ちも含めて寄進したのではないかと推測し てみえます。
 松林に囲まれた信最寺の梵鐘の前に立つと、江戸時代に思いが移り、老いを迎えた定信 と光太夫の二人が松の木陰に互いに寄り添い、御仏の慈悲にひたすらすがって念仏を唱え ている姿が彷彿(ほうふつ)としてくるのであります。 松平定信は隠居後に光太夫について直接には何も述べてはいませんが、信最寺の梵鐘は そんないきさつがあっても不思議はないような気が私にもしてくるのであります。 

                                   (終)    講演の内容を基礎に、若干の補正を致しました。
 また、榎本守恵著『北海道の歴史』北海道新聞社、衣斐賢譲著『大黒屋光太夫追憶』竜 光寺出版部などの文献も参照し、鈴鹿市文化財調査会会長仲見秀雄氏、評論家山下恒夫氏、 光太夫顕彰会事務局長山口俊彦氏、鈴鹿高専助教授小谷信行氏、根室市博物館学芸員川上 淳氏、四日市博物館学芸員秦昌弘氏他の方々より種々ご教授を受けました。心より御礼申 し上げます。

一般ホームページ