バックナー中将の死因について




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この論文は鈴鹿高専紀要第29巻第2号(1996年10月)に掲載された。     斎藤洪一


1。はじめに  平成6年11月に当時の2年生は研修旅行に 沖縄に出かけた、その当時筆者は沖縄に関する予備知識はほとんど無かった。それでいろいろ市販されている沖縄に関する文献を読んでみた。沖縄に関する文献は市中に出回っているだけでもおびただしい量にのぼり。すべてに目を通す分けにはいかなかったが。筆者が目を通した僅かな書籍の中で気になった事が有ったのでそれについていろいろ調べて見た事の報告と、沖縄研修旅行についての意見を述べる。先ず沖縄と言えば沖縄戦の事について触れないわけにはいかない。沖縄戦に関しても無数の文献が有るが、ここに、ある雑誌に掲載されたもので第二次世界大戦に実際に従軍した将校が平成2年に沖縄を旅した時の手記から引用しよう。文献[1]      

    『沖縄は、戦時中工兵の将校だった私が、沖縄進攻の米軍の背後から逆上陸して日本軍の窮地を救おうとする特攻兵団に編入されて死ぬべかりし土地であった。 幸か不幸か、その無謀きわまる自殺特攻の上陸作戦は、出航30分前に大本営の命令によって中止となった。理由は、日本軍のこの特攻作戦を暗号解読して察知した米軍が、急遽、ニミッツの機動部隊を台湾東海域に北上させ、日本の艦船が出港するや直ちに捕捉攻撃する態勢を取っている事が判明したからである。  台湾北部の基隆港の岸壁に接岸していた3隻の輸送船は、乗せるべき一個旅団の部隊を下し、積み下ろすことの出来無かった武器弾薬は積み込んだまま、あわただしく出港し、まもなく米海軍の艦艇に捕捉され撃沈された。
大本営は、なぜこんな馬鹿げた、非人道な作戦をたてたのだろう。誰が考えてもこんな作戦が成功するはずはない。沖縄の嘉手納地域の西の海域に集まった1300隻の米軍艦船、上陸した何万という米軍の後ろから、たった1個旅団の兵力でどうやって上陸するというのだ。海を埋めている艦船の間をどうやって通りぬけるのだ。 
出撃3日前、私の乗るべき輸送戦を見に行ったら、顔見知りの野砲の中尉が部下を指揮して野砲をロープで上甲板に固定しようとしているではないか。まさかと思った私が「野砲を甲板に繋索して、アメリカ艦隊と砲撃戦をやらかすつもりじゃないでしょうね。」と冗談のように聞いたら、中尉はシラけた顔をして笑った。「その通りだよ、野砲でアメリカ艦隊と渡りあうんだってさ」冗談じゃない。どこの馬鹿がそんな命令を出したんだ。野砲は野戦で使うもんだ。一発も撃たないうちに海の藻屑になろうというのに。こんな戦争は負けるに決まっていると思った。
かってアメリカの艦隊が海を埋め尽くした恩納村の浜は、今、ムーンビーチ、万座ビーチといったレジャー基地になり、大勢の若者や家族連れでにぎわっている。その人たちはほとんど、今から45年前、このブルーの海をおおいつくす1300隻のアメリカ艦船からの砲撃と上陸作戦で沖縄西海岸が修羅の巷と化したことを知らない。・・・・・・      昭和20年4月1日、数百隻の艦船が西海岸から本部半島(沖縄記念公園のある所)、慶良間群島にわたって密集し、猛烈な艦砲射撃を加えたのち、千数百隻にのぼる上陸用舟艇が嘉手納海岸に殺到してきた。シモン・バックナー将軍の率いる米第十軍の精鋭だった。
上陸した米軍はほとんど抵抗らしい抵抗も受けず、たちまち日本軍の飛行場を占領、すぐに米軍の飛行場として使い始めた。これがのちに巨大な米空軍嘉手納基地に変貌するのである。補兵部隊は北と南に分かれ、南進する米軍はどんどん日本軍と現地人を南の断崖へと追つめていった。ひめゆり部隊の無惨な最後もこの南の摩文仁の丘の近くである。
6月18日、バックナー中將は糸満郊外の前線観測所で戦死、19日、米第96師団の副師団長イーズリー准將戦死、18日第44独立混成旅団長鈴木少將斬り死に22日、第24師団雨宮師団長自決、第62師団藤岡師団長自刃、6月23日、日本軍指令官牛島満中將、参謀長長中將自刃。こうして沖縄の悲惨な戦闘は約3カ月で終結した。米軍死者12500人日本軍死者9万余人、沖縄総人口45万人の中、現地人の死者15万6千人余であった。ちなみに、太平洋戦争中、本土における非戦闘員の死者総数39万9千485人。沖縄ではその半数にあたる15万6千余人が死んだことを忘れてはなるまい。

6月下旬のある日、私は台湾の部隊の無電室で、沖縄の部隊の最後の無電通信を聞いていた。それは最後に「ツー」と長音の連続音を鳴りひびかせて、突如鳴り止んだ。それが沖縄の日本軍指令部の壊滅のしるしだった。受信していた無電兵が号泣した。思えば、沖縄の米軍艦船に特効攻撃をかけた特攻機の最後の「ツー」という長音を何度聞いた事か。突撃する操縦士は電鍵を押したまま突っ込み、爆発と同時にその音は途絶えて、最後の時間を基地に教え、昇天したのだった。・・・・・・・  沖縄の戦闘が始まる直前に、沖縄守備軍は、県下女子中等学校の生徒らに看護訓練を施し、米軍が上陸すると、ただちに学徒隊を編成して戦場に駆り立てたのだった。 昭和20年3月23日の深夜、女子師範学校と県立第一高女の寮生全員と自宅通学生219名と職員18名が南風原陸軍病院に配属された。
彼女等はただ祖国の勝利を信じて、負傷兵の看護や死体の処理、慰労器具・薬品・食料・水の運搬などを必死で行った。5月下旬、日本軍は南部に敗走し、南風原陸軍病院も南部へ撤退した。すでに壊滅し、狂乱状態にあった日本軍は、喜屋武半島の地獄の戦場のまっ只中で、乱暴にもひめゆり学徒隊に解散命令を出したのである。どうしてこんな馬鹿げた命令を出したのか。自分の命にかえてもこのいたいけな少女達を助けようとする将校は一人もいなかったのか。私自身も工兵の将校で大勢の兵の命をあずかっていたから、こんな話を聞くと、歯がギリギリする。
14才から17才までの少女たちをこき使い、負傷兵の手足を鋸で引き切る時、からだを押さえさせ、包帯交換で膿だらけにさせ、弾雨の中を水をくみに行かせ、あげくの果ては解散し、放り出し、しかも投降することを許さず、無惨な死へ追いやった者どもは、死して今いずこに有りや。米第十軍はヘルプという声を聞いたら絶対に撃つな、と命令したというではないか。第十軍指令官バックナー將軍が戦死した時、米軍はすぐにそれを公表しているではないか。それほど公明正大に戦っている米軍の布告を信じないで、少女たちや民間人を無惨に死に追いやった者どもは、死後もなお裁かるべきではないのか。』

 読んでいて胸を打つ文でああり、このなかには示唆に富むことがいくつか書いてある。その1つはその当時日本軍、特に陸軍はほとんどまとものな思考が出来なくなって来たということである。そこに書いてあるが、逆上陸もそうである。戦艦大和もその逆上陸作戦の一環であった。即ちその当時世界最大の戦艦で有った大和を出撃させて米軍の囲みを撃ち破って艦ごと海岸に乗り上げてそのまま要塞化しようというものである。そのためにあたら世界一の戦艦を戦闘機の護衛もなしに出撃させ一度も戦うことなく海の藻屑とさせてしまった。その戦闘機のことであるがその当時日本に戦闘機が全くなかったのかというとそうではなく僅かではあるがまだ残っていた。そのなけなしの戦闘機を全部「神風」特効隊に使ってしまったのである。この戦法もほとんど効果がなかった。そのために貴重な飛行機と若い命を沖縄の海に散らせてしまった。そもそもそも神風の由来とは何か。これは鎌倉時代に元軍が日本に攻めてきた時、幕府軍も必死に戦って上陸させずに水際でくい止めた、そのうち夜になったので元軍は船に帰った、そしたら夜中に台風が来て船は転覆するは傾くはで元軍は大混乱になり、ほうぼうのていで逃げ帰ってしまったという歴史上の事実にもとずいている。これは神の尭幸ということで「神風」と呼ぶようになった。しかしここで考えてみたいのであるが本当に神風が来たのであろうか。そのときの武士も防戦につとめた、先ず上陸を少しでもくい止める為に長い防護柵を作った。そして上陸を許すまいとして。必死に闘ったから、元軍を船に押し戻すことが出来たのである。それで「神風」(台風)を呼ぶことが出来たのである。また元軍の船の質も悪かったに違いない、たぶん船は朝鮮に作らせた急ごしらえの船であったのだろう。日本人はこの時の教訓を少しも生かしていなかったように思える。何の対策もしないで苦しい時の神頼みだけを頼る様になった。沖縄のときの日本軍はまず沖縄の海岸に要塞をつくらなかった。もともと日本には海岸に軍事用の要塞を作るという考えがあまりなかったように思う。これは日本が過去に外国から攻められた経験が少なかったせいであろう。次に米軍を易々と上陸させてしまった事である。これは当時の大本営の作戦で有ったそうだからここでどうこう論じても仕方の無い事であるが、戦争の常石として、最後には上陸させるにしてもそれまでそれを阻止するために必死で闘い相手に無傷で上陸させるようなことはなるべくなら避けるべきではない化と思う。また米軍は沖縄上陸作戦を台風の時期を避けて実施している。沖縄上陸の後南九州上陸も計画していたといわれているが、これも時期は11月頃と台風の時期を避けている。あたかも日本史の元軍来襲の事実を調べていたと思われてもおかしくないくらい用意周到に計画している。              それから、筆者がまた気になった事であるが沖縄戦では日本軍はいかに勇敢に戦ったとはいえ最後は惨敗に終わってしまったにも関わらず米軍の最高指令官でバックナー將軍が先きに戦死されてしまったことである。日本軍の最高司令官牛島中將はその数日後に自決されている。じつはバックナー将軍のこともこの文章ではじめて知ったのである。沖縄戦では敵味方両方の最高責任者がともに亡くなってしまった。これは戦史上非常に珍しい例だそうである。これが将棋であったならばいわば米軍は王将を先に取られた訳だからその時点で直ちに米軍の負けということになるのだが、織田信長と今川義元が闘った桶狭間の闘いにおいては今川軍は5万とも3万とも言われる軍勢、対する織田方は僅かに5千足らずの軍しか集められなかったといわれている。これでは織田方にとても勝ち目はない、それが策略と天の尭幸により織田方が義元の首級を挙げたことにより今川方は総崩れとなり織田の勝利となった例はある。ところが近代戦ではこういうことにはならない、米軍は直ちに新たに最高司令官を任命し戦争を続行しほとんど大勢に影響なく戦争はまもなく終結した。筆者が沖縄研修旅行の為沖縄の地図を調べていたらあるところにバックナー将軍の碑があることに気がつきバックナー将軍のことを調べたくなりいろいろ本を読んでみたががバックナーについては私の調べた数少ない書物の中にはほとんど書いてないがバックナー将軍の死因についていろいろくい違いがあるので次の章でそのことについて述べてみたい。

2。バックナー将軍の戦死について

 彼が戦死した事状については3つばかり挙げてある。先ず文献[2]によると、

『松田さんの記憶では6月18日のことだった。「私は昼飯をすませると、壕内の空気が悪いので、出入口付近に来ました。奥行き2、30メートル、人口壕としてはよく整備された壕でした。外に出る時は鉄かぶとは必ずかぶる規則になっていたがただフラッと出てきたもんだから、そのとき鉄かぶとをかぶっていなかったので、林中蔚に叱られて、鉄かぶとを取って戻ってきたら、そこに小野一等兵が監視兵として偽装して立っていました。私が出ていくと、彼がすかさず指をさすのです。視たら、アメリカの兵が丘の上に3名立っているのです。 
彼が小声で 撃ってやろうか、というのです。すぐ近くなので、撃ちたくてむずむずしていました。私は 命令がなくては撃ってはいけないのですと言いました。 彼は 命令もクソもあるものか、偉そうなやつを撃とうとひとりごとを言って、撃ったらその人物に当たったのです。 すると、若い将校らしき2人が抱き抱えて、道の下の方にとめてあったジープに乗せて、パーッといなくなったのです。 私が戦後、大学生のとき、帰省の折、バックナー中將戦死の地に知人を案内したとき、その碑文に書かれている彼の戦死の日時が、あのときとピッタリ合うのを知って、震えてしまいました。まさに、あの日時、時刻も、昼、1、2時頃だったし、また、壕から見た丘も同じでした。」
ようようたる勝ち戦をしていた米軍は、その最高指揮官が戦線視察のとき、敗北しつつあった日本軍の最高指揮官牛島満中將よりも、皮肉な事に先に戦死したのである。それは、米軍の戦史記録に次のように書かれている。
「中將は、6月18日の昼過ぎ、ちょうど、島の南西端近くにある、第二海兵師団第八海兵連隊の前戦観測所に立ち寄ったところだった。この師団は、4月1日と19日に陽動作戦を行っただけで、どの部隊もまだ実際には上陸せず、6月に入ってから、最後の戦闘に参加するための第八連隊が、はじめて上陸したのである。
 バックナー中將は、この海兵隊の進撃状況を、視察しているところだった。そこへ午後1時15分、日本軍の一発の砲弾が観測所真上で炸裂。こなごなに吹き飛ばされた岩石の一つが、バックナー中將の胸にあたった。  
中將はその場にくずれるようにして倒れ、10分後には絶命したのである。」(米国陸軍省編/外間正四郎訳[日米最後の戦闘」サイマル出版会)
米軍史には、砲弾の岩石で戦死したことになっているが、6月18日といえば、断末魔の日本軍が真栄里方面に砲弾を撃てる状況にあったかなど、客観的状況を考え合わせると、松田証言の方がその場にふさわしい証言のように思える。』

次に牛島中將の伝記「将軍 沖縄に死す」にもバックナー將軍の戦死について記述してあるのでそれから引用してみよう。文献 [3]

 『6月17日、敵將シモン・バックナー中將から、牛島軍司令官あてに降伏勧告状が届けられたのである。この降伏勧告状がだされた数日後、敵將シモン・バックナーは、前線を視察中、突然、洞窟から飛び出した日本兵に狙撃され、戦死した。
狙撃した日本兵はその場でバックナーの護衛兵に撃たれ、最後を遂げた。その兵の所属部隊や階級、姓名は、わからずじまい、だったという。 日本軍将兵は敵将軍の射殺に声を挙げて歓喜した。』

以上バックナーの戦死に関して書かれていることで、筆者が知りえたことは上の3件だけである。このうち2件は日本側の資料、1件はアメリカ側のものである。アメリカのものは彼の戦死に関して米軍から正式に発表されたもので最初の資料の中に少し引用されているが、この事についてはまた後で詳しく検討するとして、3件とも事実関係の記述が微妙にくい違っている事に気がつくであろう。まさに真相は芥川の小説ではないが「薮の中」である。実のところを言えば筆者はアメリカ側の発表に対して些かの疑念を抱いておったのである。余りにも話が出来すぎているような気がしたのである。それでこの件の真相とバックナー将軍の事についてもう少し調べた事と筆者の推測を次に述べる。 

3。将軍の人となり、将軍の戦死

先にも述べたが沖縄戦では日米双方の指揮官がいずれもなくなってしまった。日本の牛島中將に関してはいくつか伝記が有るが、筆者はもう少しバックナー中將に就いても調べて見たく思ったがおびただしい沖縄戦の本の中にも筆者が見た限りではほとんど載っていない。ところが1995年6月に出版された「天王山ー沖縄戦と原子爆弾」ジョウージ・ファイファー著、小城 正訳 早川書房刊にバックナー將軍のことについてかなり詳しい記述が有るので以下これにしたっがて、書いていく。(文献[4])この本は勿論翻訳書ではあるが上下2冊、2段組、合計800頁の大部の著である。沖縄戦についてアメリカ人側からのいろいろな見解がたくさん書いてあって我々日本人にとってもたいへん参考になることもいろいろ書いてあるがそれらについてここでは言及はしないが1つだけ言っておくと表題の「天王山」も原題であって、16世紀に日本の支配者がその運命をかけて戦った場所で、あらゆる場合における、決戦を意味するようになった、と説明している。ということは著者が日本の歴史にかなり精通しているのではないかと思われるのである。牛島中將の伝記が3つあることもこの本の文献表から分かった、ところがこの本の文献表を見てもバックナー將軍に就いて書かかれている物は見当たらなかった。たとえ有っても入手するのは無理と思うが。しかしこの本の中にバックナー将軍について書いてあるところが有るのでそこから引用してみる。

『バックナーは1908年にウエストポイントを卒業して以来、その軍人としての経歴は37年に及んでいた。第一次世界大戦の前後および最中における勤務ぶりがきわめて優れていたので、真珠湾攻撃を受ける1年以上前の1940年(昭和15年)に彼は准將の地位に進んでいた。そしてLデイ(米軍沖縄上陸の日ー筆者註)の2年前中將に進級していたのである。アメリカと日本と言う非常に対称的な文化と伝統を有する2つの国において、できるかぎり対比することのできる点をあげるならば、サイモン・バックナー中將はアメリカにおける牛島満中將といってもよい存在であった。牛島と同じように、彼の育ちと受けた教育は、生まれた時から沖縄攻略軍の司令官となる方向を指し示していたように思われる。バックナーはケンタッキー州に生まれ、彼の父親は南北戦争当時の南軍の将軍で、とらわれていた北軍の刑務所を脱走して、北軍のグラント将軍に対してドネルソン砦を後に開場した英雄であり、中將に進んで後にケンタッキー州の知事を務め、民間人としても傑出した人物であった。 雄大な体格の持ち主で頑健だったバックナーは、日本軍における牛島の場合ほど、アメリカ軍の内部においてその名を讃えられ傑出した人物であったというわけではないかもしれない。しかし、彼は牛島と同様に軍務に精励し、軍務にしか関心を持たなかった。そしてもって生まれた資質から、アメリカ陸軍の上層部の中でもっとも尊敬される将軍のひとりとなっていた。牛島が帝国陸軍の士官学校の校長を務めたように、バックナーも1930年代の末期にウエストポイントの校長を務めた事がある。その時には彼は率直なものの言い方をし、万事について公正で、とくに士官学校生徒の体力の維持強化についてきびしく指導した。士官学校生徒の時自らも几帳面な性格であった彼は、自分の教え子も同じようであることを好んだ。また堂々たる風采の持ち主であっただけでなく、頭に白髪を戴き、将軍を絵に描いたような人物だった。当時彼は58才で牛島より1つ年上だったが、つねに健康と体力の維持という点において、あるいは牛島よりも多少まさっていたかもしれない。部下の将兵にとって、バックナーは「大きく、風采が立派で、血色が良く、頑健な」将軍で有るように思われた。
さらにバックナーの人となりについて詳細にのべるならば、かれは陸軍における教官として優れた人物であり、陸軍の参謀将校要員の最高の教育を施す学校を卒業してその教官を務め、自らの研究と第一戦部隊の指揮官として困難な任務を遂行した経験から、戦略戦術に関する造詣が深かった。彼は1943年にアリュウシャン列島の作戦を指揮した。そして彼が抜群の「功績」によって与えられた勲章は、通常の陸軍の機関誌によって報じられる以上のものであった。指揮官が部下に模範を示す事は日本軍の場合ほどアメリカでは重要ではなかったが、将兵は一般にバックナーを尊敬していた。彼は指揮する部隊の訓練については厳格でありながら、部隊の前に姿を表す時には傲慢な感じを与えるようなところはなかった。補兵部隊の将兵は司令部の要員に対しては尊敬の年を持つ場合が多いが、沖縄戦に参加した第一戦部隊の将兵のほとんどが、自分たちの司令官とその参謀は有能なベテランの将校の集まりであると思っていた。バックナーは1944年8月に第10軍司令官に就任した。これは、牛島がこれよりはるかに兵力の少ない第32軍の指揮をとることになった同じ月だった。もし台湾に向かう作戦が中止されなかったならば、彼は同じ軍を率いて台湾に向かっていただろう。沖縄において、彼は陸軍4個師団の他に海兵隊3個師団を指揮していた。しかし、マニュアルどうりに実施する場合が多かったし、そのマニュアルも陸軍のそれであった。彼の本能的ともなっていた考え方は、絶えず圧倒的な兵力を使用するという陸軍の標準的なやりかたを適用して敵を破るというものである。しかも、彼は当然ながら一般に保守的な陸軍においても保守的な側に立つ傾向があった。彼は短期間航空部隊に勤務したことを除いて、戦車に関する特技を持った歩兵だった。「われわれはゆっくり時間をかけて少しずつ日本軍を撃滅していく」と、彼は5月中の自分の作戦に」ついて従軍記者たちに語っている。そして、5月に入ると、「たくさんの日本軍を撃滅することになるだろう。そして敵はしだいに交代する・・・・しかし、めざましい速度で前進するということにはならないだろう。この作戦はそのようなものではないからだ」と言った。
自分の指揮下の将兵から山の老人といわれていた彼は自分がLデイ以前から計画していたように、一歩一歩着実に前進するという戦い方よりも、もっと豊かな構想にもとずいた作戦を指導するようにという圧力を受けていた。このような圧力かけてきたのは、とくに彼の上陸作戦の司令官だった海軍のチェスター・W・ニミッツ元帥である。ニミッツは硫黄島の次の目標として台湾にかわって沖縄を攻撃することを主張したも者の中で、もっとも有名な提督である。このことが、この作戦の進展についてバックナーに特別の関心をもたせた。彼は、この作戦の初期にみられたような楽観的な考え方はしていなかった。沖縄作戦開始後の最初の一週間が比較的容易に経過すると、他の上級指揮官たちは迅速に勝利を得ようとした。「上陸部隊の揚陸開始」の命令を発したアイスバーグ作戦全体の指揮官だった海軍のリッチモンド・ターナー中將が、大和を撃沈した後の4月8日、ニミッツに無線で、「小官は狂ったかもしれないが、少なくとも当方面に関するかぎり、ジャップは戦闘を中止したように見える」という冗談まじりの報告をした。これに対する次のようなニミッツの簡潔な返電は、彼の性格をあらわしていた。「狂った以下すべてを削除されたい」。アメリカ軍部隊が嘉数において、その前方に立ちはだかっている小ジークフリート戦に遭遇したのは、その翌日であった。まもなく、これまできわめて楽観的であったターナー提督の態度は、バックナー将軍に対する批判に変わった。』

さて次にいよいよバックナー将軍の戦死するくだりである、これについてもかなり詳しく書いている。そしてこれは最初にあげた米軍の正式発表したものとほとんど同じ内容である。以下引用する。

『バックナーは、6月18日の午後Lディ当日に上陸作戦を実施した後サイパンに引き上げて、同地で7週間待機していた海兵第2師団の部隊の行動を視察することにした。新鋭の将兵からなる同師団の第8連隊は、最近沖縄に呼び返されて、沖縄本島の南端に向かう最後の攻撃の先鋒部隊のひとつとして投入されていた。このような新鋭部隊の投入によって、他の地区における残敵掃討で極度に消耗していた諸部隊の火力を増強し、その士気を高揚させたことは、小城正の大隊の残存部隊を含めて西海岸にいてもっと疲労していた防御側に最後のとどめを刺すようなものであった。
しかし、その地区に散在していた日本軍の砲兵部隊は、まだ散発的に激しい射撃を行っていた。活動的で頑健なバックナー司令官は、戦闘の第一線にきわめて近い地点への訪問を延期するようにと言う要請に耳を傾けなかった。彼はあらたに戦場に投入された連隊の連隊長やその他の高級将校を伴って、島の南西端の断崖や岩の多い海岸がよく見える前進観測所へやってきた。そこは、小城正の部下たちが、部隊として最後の時間を過ごそうとしていた台地の北方にある大きな台地であった。自信に満ち、非常な努力家で、戦いに勝利を得つつ有った彼は、第10軍司令官という地位がはまり役であると思われたが、数週間後には、アメリカ陸軍の指導的な地位にあるごく小数の将軍の一人として本国へ帰還し、日本本土に対する進攻においてもっと大きな作戦を指揮する準備をすることになると思われていた。 前進観測所は大方の観測所と同様に、あたりの潅木を切り払ったわずか数ヤード平方の地点に設けられ、真栄里の稜線上にあった。そこには、アメリカ軍の射弾観測用の眼鏡のほかにもうひとつ、日本軍からの捕獲品の砲隊鏡が設置されていた。それらの眼鏡は、約1ヤードはなれた大きな2つの丸石の間に設置して有った。それはさらに南寄りの高地にいた、日本軍の野戦重砲兵第一連隊の最後の砲に対して援護するためのものであった。
その野戦重砲中隊は、最後の高地へ後退する際に典型的といえるような大きな損害をこうむっていた。中隊の将兵は、後退する前の陣地で砲側要員が実際には砲の配置されていない洞窟から煙を上げてアメリカ軍の砲兵と艦砲を欺くことに努めたがそれもいまや不可避となった最期を引き延ばすことができたに過ぎなかった。アメリカ軍の連日の集中射撃によって砲手は脅威を受け、軍の誇りであった砲は破壊され、中には一発も射撃しないうちに破壊されたものもあった。今は、中隊の火砲12門のうち1門だけが残っていた一一砲主の一人が語ったところによれば、それは「奇跡的に破壊をまぬがれ」たもので、破壊された11門の火砲から使用可能な部品を集めて組み立て、生き残った砲手が交代で操作していた。
ちょうど午後1時を過ぎた頃、かろうじて生き残っていたこの隊の一人が北方の高地に目を向けて、双眼鏡の焦点を合わせてみると、驚くべき事に、明らかに高い地位に在ると思われる敵の将校数名が立っているのが見えた。この将校達は眼鏡で、今いる位置とは反対側、つまり東側の海岸にある牛島将軍の司令部の方向を見ているようだった。バックナー中將は、見晴らしの良い観測所に一時間ほどいて立ち去ろうとしているところだった。彼は他の者に、戦況は順調に進展しつつあり、別の部隊のところへ行ってみようと思うと言った。彼が分かれの言葉をいい終わらないうちに、射撃指揮に熟達した日本軍の指揮官が、最後まで残った砲に、重要な将校の一群という魅力的な目標に対して射撃を命じた。戦砲中隊の残りの者は、急いで洞窟の中に入った。「われわれが一発撃つと、向こうから、一千発のお返しを受けることがよくわかっていた」からである。
その砲からは五発発射された。アメリカ軍の砲兵は、その弾着の正確なことに驚いた。というのは、重砲の射撃においては通常、目標に命中させるまでに、弾着を修正しながらもっと多くの弾丸を発射する事が必要だったからである。日本の砲兵は弾着の精度を知る方法がなかった。砲弾の1発が、防護用の大きな丸石のひとつにあたり、飛び散った石の破片が砲弾の破片とともにバックナーの胸部と腹部に食い込んだ。出血がひどかったので、彼を救護所に後送することはできなかった。一行に随行した衛生兵が必死になって止血につとめたが、バックナーは10分後に落命した。 作戦の終わる時機が近くなったからといって、決して戦死するおそれがなくなるわけではないことを最初から知っていた歩兵武隊の将兵にとって、この事件はそうした考えが正しかった事を証明するものであった。新たに戦場に投入された海兵第八師団のある人物は、「私にいわせれば、全軍の司令官ともあろう人物が、あんな前線に出てくるべきではなかったんだ」といった。
第32軍の若い参謀たちは、東京から無線でバックナー戦死のニュースが届いた時、歓声を上げた。沖縄県民でこれを目撃したある者は、長が喜んで万歳をするのを見たという。牛島だけは、自分の幕僚がこのように喜び浮かれている様子を見て当惑し、沈黙していたが、後で自分と同様の地位にあった敵の軍司令官の冥福を祈ったといわれる。これは、只の噂に過ぎず、それがそのままいい伝えられているのかもしれないが、日本軍の指導敵地位にあった二人の人物の死をめぐっていわれている。間違いない事は、バックナーが第二次世界大戦におけるアメリカ軍の戦死者の中で最も階級が上の人物だったということである。いたる所で非常に多くの者が戦死しているので、彼の戦死は一部の人々には「異例なことではない」ように思われた。戦場では、生死の分かれ目はわずか数インチの差で決まる。彼に随行していた将校はかすり傷一つ負わなかった。軍司令官であったバックナーも多くの部下達と同じように、戦場ではいつ訪れるかわからないが非常によくある不運に遭遇したのである。』

以上かなり詳しく当時の状況が描写してある。たぶんここに書かれていることがアメリカ軍が正式発表した詳細であろうと思う。筆者は日本人によって、言い伝えられた事実とアメリカ側の発表が違っている事に些かの疑念をもった。アメリカ側の発表では彼の死をたんなる偶然とみなし砲弾または岩の破片に当たったのはまぐれあたりとしている。しかし筆者は偶然にしては話が出来すぎていると思ったのでそこに些か疑念を持ったのである。アメリカとしては仮にも1国を代表するような重要人物が名もなき日本の1兵卒に狙撃されて落命したと発表するのにしのびなっかたのか、それであのような作り話をでっち上げたのか、実は似たような話を筆者が読んだことがあるのでふとそう思ったのである。ではその話をここに載せよう。中里介山著「日本武術神妙記」の中のさとりという文章に書いてある。ここに全文引用する。(文献[5])

『ある樵夫が深山に入って、木を切っていると、そこへ、さとりという眼が一つ角が一つの珍獣がやって来たから樵夫は此奴珍しい奴がやって来た、何とかして生け捕ってやりたいものだな、と思っていると、そのさとりが、「その方は心中に我を生け捕りたく思っているな」と言われたので樵夫はこれを聞いて大いに驚きおかしな奴だと考えていると、さとりが又云う。「その方はおれがその方の心の中を悟ったことを不思議に思っているな。」 と云い当てる、樵夫ますます驚いて、心の中で此奴この化け物め、この斧で一打ちに撃ち殺してくれようか、と思う途端、さとりが、「その方、その斧を以ってこの我を殺したく思っているな」 と言われてしまった、樵夫があゝあゝ斯う一々自分の思うことを悟られてしまってはとても仕方がない、もとのように一心に木を伐るに越した事はないと仕事にとりかかると、さとりがまた云う。「その方、もはやいたしかたなきうえに仕事にかかったな」 樵夫がもう相手にならず一心に木を伐っていると、その斧が自然に飛び抜けてさとりの頭を打ち砕き、さしもの珍獣も二言もなく死んでしまった。 このことを剣術のたとえによく応用する、心に物あるときは残らず悟られて了うが、無念夢想の時ばかりは如何なるさとりも予知することも予防することも出来ない、剣の妙所もその辺にあるとたとえられている。』

以上である。この話は筆者も剣術小説で読んだような気がする。この話が先のバックナーの死因によく似ているので米軍関係者がこれを元にして作り上げたのではないかと思った次第である。しかしそれにしては米軍関係者の中にこんな話を知っている人がいるとも思えないが、しかしアメリカのことだ戦争を起こす前に日本の事をよく調べたのかも知れない。とにかく真相はよく分からない。筆者としてもここで結論は出さない。こういう事もあると云う事を報告しておく。

4。筆者の見解。研修旅行についての意見。

 「天王山」にも書いてあったように、沖縄戦において、皮肉にもアメリカ側の総大将が先に戦死してしまった。一方の旗頭が先に亡くなったにしてもアメリカ側の大勝に終わったことには変わりはない。またこれも皮肉なことに日米の本国同士にも似たような事がおこっている。沖縄戦の初め四月上旬に当時のアメリカの戦争の最高責任者であるルーズベルト大統領が日本の最高責任者よりも先に亡くなっている。もちろん病死ではあるが。この時も戦局にほとんど影響はなかったが。しかしこのことはそれ以後の日米関係を象徴している様に思われる。アメリカは確かに大戦には勝ったがそれ以後の日米経済戦争、貿易戦争において日本に負け続けて居ると云ってよい。いまや日米の地位は逆転しているように思える。沖縄はこのミニチュア版といってよい。今騒がれている基地問題にしても、ソ連の脅威が完全になくなって沖縄の戦略的な意味がより少なくなって来ているにも関わらずアメリカはなかなか基地を返還しようとしない。一方のフイリピンからはさっさと撤退してしまっている。これは軍事的な問題よりも経済的な問題が背景にあると思う。今基地の費用は殆ど日本が負担していると云ってよいであろう。この上米軍の軍人の給料まで負担したらアメリカは日本の完全なお雇い軍人になってしまう。しかしそれならそれでかえってはっきりしてよい。日本も外人部隊を作ればよいわけだ。アメリカはかって湾岸戦争の時日本は憲法の規定上派兵出来ないからと云って多額のお金を日本に拠出させた。しかしそれだけのお金があるならばそれでアメリカ兵を募集して派兵してもよい分けである、お金だけを出したということは結果的にそう云う事であるが。PKF問題も同様である。これは筆者の推測であるがいま基地を引き揚げると米兵の雇用問題が出てくると思うのである。これだけの人数をアメリカ本国で雇うとその費用だけでも大変なものだ。その一部を間接的に日本に肩代わりして貰っているのが現状だと思う。フィリピンの場合は基地の費用を一部でも負担する余裕はないしアメリカも全額自国でまかなう程の余裕はないのでやむをえず引き揚げたと言う事なのだろう。このことを見てもアメリカは日本に頼らざるを得ない状態になっていると思うのである。研修旅行に関しても、基地の費用の一部でも税金で負担しているのなら研修旅行のとき基地の一部でも見学させて呉れてもよいと思うのであるがなかなかそうもいかない。
我々が沖縄研修に行ったのは平成6年11月のことである。この文章の最初に述べたように筆者はバックナー将軍の戦死の真相を調べるためになんとしても彼の石碑の碑文を調べたいと思った。その当時まだ「天王山」という本は出版されていなかった。勿論研修のコースにここは入っていない。時間もなかったので早朝ホテルからタクシーを駆って現地へ向かった。この間の事情については文献 5に記していて一部重複するかも知れないが少し印象に残ったことを記すと。タクシーの運転手はバックナーさんの名前は知っていたが、碑の場所は詳しくは知らなかった。本部と無線をとりながらまた近くの民間人に教えてもらいながら場所を特定した。地元の人でも殆ど訪ねる人はいないということである。現地はひっそりした所で他に白梅の塔、山形の塔が近くにある。白梅の塔はひめ百合の塔が沖縄第一高女の犠牲者の塔であるのに対して沖縄第二高女の犠牲者の塔である。ひめ百合の塔があまりにも有名なのにたいしてこちらは訪れるものとてなく全くひっそりしたたたずまいであった。しかしこの辺一帯はわりと広く雰囲気としては良い場所であった。またタクシイーの運転手によると、バックナーさんのこともよく知っていて日本兵に撃たれ亡くなったことになっている。米軍発表の説は流布していないようである。米軍の司令部の近くに通称だろうとは思うがバックナー通りと呼ばれる所があるそうである。碑文も見たが大したことは書いてなかった。ただし急いでいたので裏面を見る事を忘れてしまった。裏面にはなにか記してあったかもしれない。しかし多分「天王山」に書いてある事以上のことは書いてないだろう。
 次に研修旅行に対する提言であるが現在は鈴鹿高専の場合は研修旅行は学校行事の一環として実施しているが。これだと随行して行く教師の負担が大変である。毎年この時機になるとクラス担任の教師は憂欝になるのが現状であると思うそれで研修旅行もなんとか授業の中に組みこんではどうかと思うのである。現在でも体育祭やマラソン大会はもう既に授業のなかに入っている。2年の研修旅行のみならず、1年の合宿研修や他の学校行事もなんとかして授業の中に組込めたら良いと思うのである。授業にするからには何らかの意味で単位を与えなければならない、あるいは体育祭のように何かの授業科目の中に何時間かの時間数を出席時間として計上しなければならない。たとえば、沖縄研修だったら、歴史の授業の1環として実施してもよい。そのためには歴史の先生に現地で2,3時間議議なり説明なりをしてもらわねばならないかもしれないが。または、1つの科目として独立した単位を与えるならば、沖縄の場合は「平和問題特論」とか「基地環境問題」などでも良いと思う。選択科目としても良いと思う。全クラスが同じところへ行く必要もないから、それも可能だろう。現在の規定では90分×30回=2700分で2単位ある。1単位だとその半分1350分=22時間30分である。現在の研修旅行だと3泊4日だから中2日を完全に授業とし午前・午後3時間ずつ計12時間、前後の旅行日は3時間ずつで計18時間、残りは事前研修として消化すれば足りるであろう、あるいは夜も2時間ほど費やしてもよい。こういうことを2回ほど実施すればすぐ2単位にはなるだろう。または1単位として実施してもよい。あるいは統一テーマでなくとも、個別あるいはグループ別にテーマを与えてもよい。その場合には我田引水になるが筆者がここに載せたバックナー将軍の事を調べさせるのも良いと思う。そしてその事につてレポート等を提出させることを単位修得の条件とさせたら良いと思う。他の学校行事もこのようにして授業の中に組み込む事を提言したいと思う。他の学校では既にこのような事を実施しているところもある。
文部省で数年前に単位制高等学校の設置を認可して以来単位制高等学校も増えてきた。本校でも1部選択制を導入するに伴い単独で単位を取れる科目をもっと増やしてもよいと思う。その際には学校行事もどんどん授業科目に取り入れるべきだ。以上沖縄研修旅行に関して1つの逸話とそれに付帯して愚見を述べた。最後にこの文を今は亡き子順三の霊前に捧ぐ。


参考文献


1)紀野一義 「はるかなる沖縄」 「真如」 平成2年6月号

                                           )2)石原昌家 「証言・沖縄戦 戦場の光景」 青木書店 1989年4月

3)小松茂朗「将軍沖縄に死すー第32軍司令官牛島満の生涯」 光人社 1989年11月

4)ジョージ・ファイフアー著小城正訳「天王山・沖縄戦と原子爆弾」早川書房1995年6月 

5)「中里介山全集 第18巻」 筑摩書房 昭和46年11月

6)「研修旅行 沖縄」 1994年 鈴鹿工業高等専門学校 (私家版)


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